◆7人のA級戦犯刑の死刑実行
1945年夏。日本における戦争が集結し、戦争の罪と罪状を裁く東京裁判が始まります。これにより東条英機などの当時の日本の政治主導者たち7名が絞首刑になりました。罪状はA級戦犯、戦争を指導した罪。1948年12月23日のことです。
1945年夏。日本における戦争が集結し、戦争の罪と罪状を裁く東京裁判が始まります。これにより東条英機などの当時の日本の政治主導者たち7名が絞首刑になりました。罪状はA級戦犯、戦争を指導した罪。1948年12月23日のことです。
- 板垣征四郎 - 軍人、陸相(第1次近衛内閣・平沼内閣)、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。
(中国侵略・米国に対する平和の罪) - 木村兵太郎 - 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣)
(英国に対する戦争開始の罪) - 土肥原賢二 - 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官
(中国侵略の罪) - 東條英機 - 軍人、第40代内閣総理大臣
(ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪) - 武藤章 - 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)
(一部捕虜虐待の罪) - 松井石根 - 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)
(B級戦犯、捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)) - 広田弘毅 - 文民、第32代内閣総理大臣
(近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)
以上、Wikipediaより
A級戦犯のABCは罪のランクではなく、戦争犯罪の種類です。Aは戦争を指導した罪。Bは戦場で起こした普通の犯罪。Cは戦争捕虜に対する虐待と区別されただけに過ぎません。
東京裁判自体色々な議論があろうかと思いますし、A級戦犯という呼び方も、日本が戦争をしていた時には存在していない法律を事後法によって裁くことが目的で付けられたものです。勝てば官軍です。
◆7人の刑の執行責任者、猛将ウォルトン・ウォーカー
この裁判の是非は今回はさておき、この時の彼らの処刑の執行責任者がアメリカのウォルトン・ウォーカーという中将です。
彼は欧州戦線においてドイツと激闘を繰り返した指揮官であり、アメリカ陸軍においてパットンに次ぐ優秀な機甲部隊指揮官でした。
戦後の1946年8月。彼はロバート・アイケルバーガーの後任として、日本占領軍である第8軍司令官に任命されます。A級戦犯の処刑実行は彼の最初の重要な任務となります。
彼の戦歴はヨーロッパ戦線のものではありましたが、日本の戦後処理に関わることになり、東條英機らA級戦犯7名の絞首刑の実行、そして火葬、遺骨の扱いに関わる執行責任者を務めることになります。
A級戦犯の彼らは従容として刑を受けます。その遺体は横浜の久保山火葬場で荼毘に付されますが、その後の遺骨の行方はよく分かっていません。
教誨師や日本の関係者、東條夫人や遺族たちは遺骨返還をすぐに求めますが、GHQ側では遺骨を返すと、神社を作って崇拝対象や英雄扱いすることを懸念し断ります。
一説には、火葬場が飛行場の近くであったことから、飛行機で太平洋上にばら撒いたとも。ドイツ戦犯に対する遺骨処理の先例が飛行機による川への投棄であったことから、彼らの遺骨も同様に処理された可能性が高いです。
当然、異教徒の彼らにしてみれば、7名の遺灰に対して宗教的な儀礼もなくモノを扱うように投棄したのは想像に難くないと思います。
この一連の実行責任者が、ウォルトン・ウォーカーだったのです。
しかし、この裏では日本人たちによって、少しでも残った遺骨を集め、供養しようとする動きもありました。回収された7名分が混じった僅かな遺骨は、熱海の興亜観音(こうあかんのん)という場所に時期がくるまでで密かに葬られました。彼らの七士の墓が出来るのは1959年まで待たなければなりません。
◆朝鮮戦争で事故死を遂げる
それから、2年後の1950年6月、朝鮮戦争が勃発します。ウォルトン・ウォーカー中将も米韓軍の指揮者の一人として赴きます。
1950年12月23日深夜、米第24師団と英第29師団を視察するため、自身が運転するジープで幕僚の中佐とともにソウル北方を移動している時に事故は発生しました。
ソウル北部に位置する議政府市の南方5kmの街道上で、韓国軍第6師団第2連隊所属のトラックと接触事故を起こし横転、車輌の下敷きとなったのです。
すぐさま野戦病院に収容され、同乗していた中佐は重傷でしたが、ウォーカー中将はほぼ即死の状態でした。
この事故の起きた12月23日は、東條英機らA級戦犯の7名の絞首刑の執行から、ちょうど2年後の三回忌の日でした。そして死刑の時刻とウォーカー中将が落命した時刻までがほぼ一致したのです。
落命した時刻までが一致したので、周囲が七士の祟りと思ったのも無理はありません。米韓の兵士たちの間でその噂は広がることになりました。
その後ウォーカー中将軍は1階級特進の大将となり、アーリントン国立墓地に埋葬されます。
ウォルトン・ウォーカー中将(右)とマッカーサー元帥(左) | ||
後日談ですが、数年後、ウォーカー中将の副官は友軍の韓国将校から日本の興亜観音に七士の墓があると聞き参拝します。
話を聞いた興亜観音の伊丹忍礼師は「怨親平等」のもと彼等を温かく迎え、ウォーカー大将霊を丁重に供養したとも。
絞首刑になったA級戦犯の彼ら七士は熱心な仏教徒になった者もいて、その死を従容として受け入れていたと言います。七士の祟りとは、アメリカに対する無念の兵たちによるものだったのでしょうか。それとも事故は偶然の一致に過ぎないのでしょうか。
興亜観音
死者たちの魂は敵味方なく鎮魂されています。