これも映画の影響が大きいですが、フランケンシュタインは、前記事の「狼男」や「ドラキュラ」と違って、完全な創作の産物なのです。
◆フランケンシュタインは怪物の名前ではない。
「フランケンシュタイン」は、イギリスの小説家メアリー・シェリー(1797〜1851)という女性作家が1818年3月11日に匿名で出版したゴシック小説。
このフランケンシュタイン、実は怪物の名前ではなく、怪物を作った医学学生(博士号は持っていない)の名前なのです。ですので、ですので正確には「フランケンシュタインの(作り出した)怪物」なのです。
小説のタイトルは『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』。
主な内容は以下のとおり
スイスで生まれたヴィクター・フランケンシュタイン青年は、17歳の時、科学者を志しドイツに留学し、そこで自然科学を学び、死体に命を与えることに成功した。
出来上がった怪物は、優れた体力と人間の心と知性を持ちあわせていたが、その容貌はおぞましいものであった。そのあまりのおぞましさに絶望したフランケンシュタイン青年は、怪物 (名前を付けられていない)を残して故郷であるスイスに逃亡してしまう。
一人取り残された怪物は強靭な肉体故に生き延び、スイスのフランケンシュタインの元へとたどり着くが、人間との交流ができないことから、自分と同じような女の怪物を作ってくれるように懇願する。
しかし、これ以上、怪物が増えることを恐れるフランケンシュタインはこれを拒否する。絶望した怪物は、復讐のために彼の知人や妻を次々と殺害する。
フランケンシュタインは、自分の作り出した怪物を呪い、自分の罪に苦悩しつつ、怪物を殺害しようと追跡をするが北極海で息を引き取ることになる。
フランケンシュタインはこれまでの経緯を船長のウォルトンに語り、息を引き取る。
創造主から名も与えられなかった怪物は、創造主の遺体の前に現れ、彼の死を嘆く。そこに現れたウォルトンに自分の心情を語った後、北極点で自らを焼いて死ぬために北極海へと消える。怪物のその後は誰も知らない。
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小説には「現代のプロメテウス」とありますが、これはギリシャ神話に登場す人間を創造したとも言われている男神の名前です。ゼウス神の反対を押し切り、天界の火を盗んで人類に与えたともされていますが小説のタイトルには相応しい神様だと思います。
また、小説でも語られていますが、「名も与えられることがなかった」という悲劇性を演出するために怪物にはあえて名が付けられなかったのですが、後世では、このフランケンシュタインが怪物の代名詞になってしまいました。
さらにこの小説を基にして1931年に製作された映画『フランケンシュタイン』が容貌などのイメージを決定づけたといえます。
◆モデルや伝承のような元ネタはあるのか?
さて、この小説や映画ですが、狼男やドラキュラ伝説のような古来からの伝承に相当するものはあるのでしょうか。完全な創作にしては良く出来ていますよね。この時のメアリー・シェリーは当時19歳だったというから驚きです。
似たような話としては「ゴーレム」という怪物がいます(右図)。これはユダヤ教の伝承に登場する、自分で動く泥人形なのですが、作った人間の命令だけを忠実に実行する召使のロボットのようなものです。製造すると自然に巨大化するとされており、フランケンシュタインの怪物も巨人として描かれていることからも類似性が見出されます。
人間が生物を生み出すものとして最も有名なのは「ホムンクルス」でしょう。こちらはラテン語で「小人」という意味になりますが、ヨーロッパの錬金術師たちが作り出した人造人間を指します。
パラケルススという錬金術師の著作にはその製法の仕方まで事細かに書かれています。
これはキリスト教社会においては、神の領域に触れる禁忌として怖れられ、錬金術は完全にタブーの対象にあっています。
◆人造人間〜神の仕事を人間が行うことへの罪悪感
このように西洋では、神と人間、いわば、創造主と被創造物という区分がはっきりとされていて、神の領域に人間が足を踏み入れることは、畏れ多いこととされていました。空も神や天使たちの領域だったのです。
それでも、知恵を少しずつ少しずつ蓄えてきた人類は、時には悪魔の所業として迫害され、ある時は魔女裁判のような異端扱いを受けながらも、以前の神の領域とされている領域へ少しずつ少しずつ踏み入れるようになってきました。
そして、産業革命を契機に一気に近代化へと踏み出したのです。メアリーたちのこの時代は、そのような時代でもありました。
近代化は人類の未来への進歩への可能性を開くと同時に、その一方で、「神の怒りに触れるのではないか」「罰せられるのではないか」という怖れもあったのです。
これをフランケンシュタイン・コンプレックスと言うのですが、生命の創造への憧れと禁忌を犯すのではないかという神への恐怖の入り混じった感情に西洋人は支配されることになります。
1920年にチェコの戯曲に人造人間=ロボットがはじめて登場した時も、その内容はロボットが人間の敵となり、人類を亡ぼすという内容でした。そしてロボットという言葉の持つ意味は「労働」「苦役」というマイナスのイメージだったのです。これもまた、フランケンシュタイン・コンプレックスから来る罪悪感が生み出したものといえそうです。
神と人間の関係が、創造主と被創造物という明確な区切りをされている点、日本のように偉人や高貴で徳高き人が、神様の仲間入りするような文化とは明確な違いがありますね。
◆現代のロボット技術に対する感情の違い
現代では、人間の単純労働をロボットが代りに行うようになってきました。生産性が向上する反面、西洋では拒否感があるようで、普及には抵抗があるようです。
それはもちろん、自分たちの労働を奪われるのではないかという怖れもあるとは思いますが、それ以上に「フランケンシュタイン・コンプレックス」があるからではないかと言われているのです。
日本のアシモ(右図)も当初は怖いイメージを持たれたようですね。
かたや日本ではどうでしょうか。人造人間のような話よりも、死者を蘇らせたり、呪いによって生み出された妖怪、自然発生的な物の怪という話の方が多いように思います。そこには、絶対神のような唯一無二の創造神の存在は見られません。
付喪神の話がありますが。これは人間が作った道具であっても、愛着を持って長年使っていると魂が宿るという思想です。ですので、大切にしないと、道具のお化けになって祟りを起こすとも。これも自然発生的な誕生ですね。
人の手によって作られた人工物であっても魂が宿るというのは、日本独自の面白い文化だなと思うのです。はやぶさ探査機や、艦これなど、擬人化してしまうのは日本のお家芸なのかもしれません。
→はやぶさ「はじめてのおつかい」
◆鉄腕アトムとフランケンシュタイン
麻生大臣が、先日、日本のアニメ「鉄腕アトム」のブームが日本のロボット産業を普及したというような主旨の発言を語っていました。
「ロボットが人間を使うという恐れは日本人にはない。これはマンガのおかげだ」
日本人がロボットに対する恐怖心がないのは、マンガ文化の功績だという持論を国際会議の場で展開したのです。
日本のロボットは、ドラえもんにみるように人間が困った時に助けてくれる存在なのです。いわば優しい友達。このイメージがあるおかげで、日本はロボットを開発したり、普及させることに抵抗感がないというのです。
確かに、現在のロボットエンジニアたちには、ガンダム世代の研究者も多く、実際にガンダムに憧れてこの世界に入ってきたと公言している人もいますので、アニメの影響があるのは確実だと思います。
しかし、これは、実は麻生大臣の持論ではなく、渡部昇一氏が初稿の論説だと思います。
→『日本の繁栄は、揺がない。』1991年刊
<関連記事>
→道具の日と付喪神について
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拙ブログへのコメントありがとうございます。
拙宅の近所にも開店しては1年持たず閉店してしまう店舗が
あります。交通量が多い国道に面しているのに不思議です。
by johncomeback (2016-07-02 20:14)