今回はキリスト教の霊界観を。(前回は日本の霊界観)
キリスト教が世界に布教をしていった時、大きな壁が立ちはだかりました。それは、その地域の宗教との摩擦です。
ヨーロッパのゲルマン人たちも最初はキリスト教を好意的に受け入れていました。愛の教えは魅力的に移ったのでしょう。この地に来たキリスト教の宣教師ボニファティウスの話も良いものだと思っていました。族長ラートボードも教会を建てるのに協力をしたり、洗礼をも受けようとしました。
しかし、ふと、ここで疑問が族長には沸き起こります。
「自分は洗礼を受けると天国に行けるが、自分の先祖たちはどうなるのだ?」と。
その質問をボニファティウスに尋ねると、ボニファティウスは率直な人格なので、
「洗礼を受けないと救われないという教えなので、あなた方の先祖たちは天国には行っていない。」
と答えます。それを聞いた族長ラートボードらゲルマン人たちは大いに怒ります。
先祖崇拝の強い彼らにとっては、天国とはいえ、彼らと違う世界になど行けないし、現在先祖たちがいる世界が地獄と言われるのにも我慢ならなかったのでしょう。布教はいっぺんでパーになり、造りかけた教会は焼き払われ、さらに迫害をも受けることになりました。ボニファティウスはこの後も同じようなことをしたのでしょう、後に殉教しています。
似たような事件は各地で多発し問題になります。そこで、時のローマ法王グレゴリウス一世は教義の変更を行います。
「洗礼を受けずに死んだ霊は、天国には行けないが地獄に堕ちるほどのものでもないとし、『煉獄(れんごく)』という場所で待機している。そして洗礼を受けた子孫の導きにより、天国へと誘えることができる」と。
中世のキリスト教の話はこのような「煉獄」の話が非常に多いそうです。しかし、もちろんのこと新約聖書には煉獄のことは記載されてはおりません(旧約聖書の『第二マカバイ記』の記述も根拠になるという説もあり)。
そして、キリスト教のなかでもプロテスタントは煉獄を否定し、カトリック教会と分かれた正教会でも煉獄を認めてはいません。
宗教が国境を超えてくる時、これと同じような問題は、日本でも起こりました。古来より八百万の神様を信奉していた日本に仏教がやって来た時に、このふたつをどう捉えて良いのか。
日本人が生み出した考え方は、「本地垂迹説」と言って、
「日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れたものである」とする考えです。
実は今まで拝んできた八百万の神々は、仏教のなかの様々な仏様たちが先に化身として来ていたという考え方ですね。これでは宗教間の争いは起こりません。日本人らしい発想力というか、和をもって尊しとなす日本らしい考え方ですね。
ちなみにお隣の朝鮮半島では、古い宗教は毎回塗り替えられてしまうそうです。
さて、このように実は教義というものは時代時代の変化に応じて変更があったりするのですが、キリスト教では、現在では認めていない「転生輪廻=生まれ変わり」という思想も初期のキリスト教会にはあったのです。
クムラン教団・エッセネ派説が書かれたとされる「死海文書」には、転生輪廻に関する記述が書かれているのです。他にも「ナグ・ハマディ文書」「トマスによる福音書」「マグダラのマリアによる福音書」「ユダによる福音書」などが明らかにされ、そこにも輪廻転生に関する教えが含まれていたとされます。
特にイエスが属していたとされるエッセネ派自体が転生輪廻を信じていました。
これはどういうことなのでしょうか。
イエスの時代の「キリスト教徒」や「ユダヤ教徒」は、輪廻転生は当たり前の事として信じられていたらしいのですが、紀元6世紀のコンスタンチノープル会議でキリスト教会が輪廻転生を否定する決定をして、それ以降バチカン(新教、旧教共)の教義として輪廻転生が認められなくなったのです。ここでも会議による教義の変更なのです。要は、生まれ変わってきてしまったら贖罪の効用が薄れるという解釈なのです。
そしてキリスト教の教義以外のものはすべて「オカルト」として異端となりました。
しかし、イエス・キリスト自体が転生輪廻の存在を信じ、それを教えの中に入れていたことは当時の状況からも容易に想像できます。マタイによる福音書にも「洗礼者ヨハネは預言者エリアの生まれ変わり」であると、イエスが間接的に言っているのですから。
初期のキリスト教の教父であるアレクサンドリアのクレメンスやオリゲネス、アタナシウスなども輪廻転生を信じていたと言いますから、根幹部分に関わる教えが変わるというのは信じている人にとってはどうなのでしょうか。
仏教との違いでみると、生まれ変わりを認めていませんので、「天国に行った者は永遠に幸せになり、地獄に行ったものは永遠に責め苦に遭う」という、仏教徒の日本人からみると、なんとも救いのない感じではあります。
人類の歴史をみると宗教の違いによる紛争、戦争が非常に多いですが、本地垂迹説のような日本的解釈というのがもっと世界に受け入れられれば、宗教による戦争も少なかったかもしれません。
現在の地球的規模で本地垂迹説的に見ると、キリスト教、仏教、イスラム教などは、究極の神(いるとすればですが)が、その時代や地域にあった形で現れたものと考えれば、ひとつにまとまるのかもしれませんね。
参考文献『理想的日本人』渡部昇一著など
この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。
コメント 0