紀行文『おくのほそ道』とは、元禄2年3月27日(1689年5月16日)から150日あまりの日程で、江戸から東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅をし、その先々で俳句が詠み込まれている日本の古典の紀行作品においても代表的存在となっています。
計算すると2400km ÷ 150日 =で一日にすると平均15Km程度なのですが、まったく移動をしなかった日もあり、かたや一日で50Km以上も移動している日もあるのだそうで。
江戸時代の標準的な1日の行程はおよそ八里から十里強(約32~40km)らしいので、(朝出発して夕方には宿につくように)当時では壮年に差し掛かる年齢の45歳で出発した松尾芭蕉にはハードなスケジュールだといえます。
(現代でも平泉まででもこんな感じの移動距離です
→Google Maps)
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そんな一般人離れした体力などから、「松尾芭蕉は忍者だったのではないか」という説があるのです。
根拠その1〜出生が伊賀国の下級武士の出である。
これは確かなようで、芭蕉の出身の下級武士は元々の伊賀者であったことから来ています。芭蕉は幕府の隠密説もあったのですが、最近の学説ではこれは否定されているようです。むしろ同行した弟子の河合曾良(かわい そら)こそが幕府隠密だったのではないかという説があります。
これは、同行した河合曽良の「曽良旅日記」(奥の細道随行日記)と、 芭蕉自身の「奥の細道」との間に、八十個所以上にのぼる食い違いがあることなど、そこには、何か隠されたものがあると見ざるを得ないとする見方です。
実際に河合曽良は後年、幕府から諸国巡見使の随員に抜擢されています。
ただ、二人共伊達領に入った途端に足早に移動する一方、伊達家の軍事要塞だった瑞巌寺、伊達領最大の商業港の石巻はじっくり観察したりしているなど、不審な動きをしているのも確かなようで、何らかの使命を帯びていたかもしれませんね。
根拠その2〜旅の資金は?
旅には膨大な費用がかかりますのでこの費用が幕府から隠密のために出ていたのではないかという説もあります。
これには、水戸光圀が「大日本史」編纂事業で調査員を全国に派遣していたことから、地理に詳しい門弟・河合曽良に調査の一部を依頼、出張費の名目で旅費を援助したというものです。芭蕉には、この河合曽良を同行者することを条件に資金援助したといいますから、ココらへんから奥の細道の目的は、スパイ、隠密説も出てきたのでしょう
か。
もちろん芭蕉自身も自分の、深川・芭蕉庵を売却したり、門弟や友人・知人からの餞別、旅先での俳諧指導のお礼なども受け取っていますから完全にそれが目的であったとは思えませんが。
根拠その3〜移動速度が早過ぎる
また荷物を運ぶ行商や飛脚は「ナンバ走り」という特殊な走行法をマスターしており、これによって長距離移動が可能だったとのこと。
ナンバ走りとは右手と右足、左手と左足を同時に出す走り方ですが、身体をひねることがないので常の走法と比較して効率の良い楽な走り方とされているそうで。
昔はよく見られた歩き方だったそうで、竹馬での歩行はナンバそのものであり、天秤の担ぎ方、相撲の鉄砲、段梯子の登り方、阿波踊りなどもナンバだそうで。
たしかに竹馬はナンバの方がバランスが良いですね。そのナンバ走りの真偽はともかく、当時の飛脚は、100kmを一日で走ることができたと言いますから凄いですよね。
芭蕉も伊賀忍者たちのいる故郷の出であること、通常の成人より優れた体力を持っていたことから、早い移動も可能だったのではないでしょうか。
個人的には、忍者や幕府の隠密であろうとなかろうと、松尾芭蕉が稀代の俳人であったことは間違いないですし、どちらでも構わないという感じです。それは、どうであれ、松尾芭蕉の生み出した俳句の価値を下げるものでもないし、芭蕉の歌人西行への憧れは嘘偽りのないものであったと思います。
芭蕉は旅先の難波の旅舎にて51歳の生涯を閉じました。
その遺骸は芭蕉の遺言通り、大津の「義仲寺」の木曽義仲の墓の隣りに埋葬されました。
芭蕉最後の句は、
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
日本各地を回った芭蕉にふさわしい句であると思います。