前回の話に続いて鬼や妖怪を討伐した英雄たちの話を。
源 頼政〜帝を怯えさせる鵺を退治
源 頼政(みなもとのよりまさ:右人物)も平安時代中期に生きた実在の人物です(1104〜1180)。
任平3年(1153)、時の帝・近衛天皇の時代、帝の住む御所に夜な夜な丑の刻になると黒煙と共に不気味な鳴き声が響き渡ります。天皇がこれに恐怖し、病となってしまいました。その正体は、鵺(ぬえ)という物の怪であるといいます。
鵺とは、猿の頭を持ち、胴が狐、手足が虎で尾が蛇という奇怪な様相をした化物(様相については諸説あり)。「ヒョーヒョー」というトラツグミという鳥の鳴き声に似た気味の悪い声で鳴いたとされています。
僧による加持祈祷も効果がなく、源頼政がその妖怪退治を命ぜられます。頼政この時、49歳。中年の域とはいえ、若き頃には武勇で名を馳せた武将です。
頼政は先祖の源頼光(前回の記事の酒天童子退治で活躍した人物)より受け継いだ弓を手にして、家来の猪早太を連れて天皇の屋敷に赴き、庭で警護にあたります。
ある日の丑の刻、東三条の方角から黒雲が湧き出し邸内へと迫ってきます。そしてその黒雲のなかから、鵺が現れました。
頼政はすかさず、「南無八幡大菩薩」と唱えてから、山鳥の尾でつくられた矢を撃ち放ちました。撃たれた鵺は悲鳴を上げながら二条城の北に落ち、猪早太に止めを刺されます。
その後、上空には静けさが戻り、天皇の体調もたちまち回復していくのでした。
頼政はこの功績が認められて「獅子王」という名刀を授けられることになるのです。
鵺の死骸の諸説と源頼政の最後
退治された鵺の死骸ですが、その後どうなったのでしょう。諸説あるようですが、『平家物語』によれば、祟りを怖れた京の人たちの手によって鴨川から大阪へ流され、芦屋川と住吉川の間の浜に打ち上げられたその死体は、ねんごろに葬らたとされています。
また、京都の清水寺に埋められたとか、淀川下流に流れついて、同じように祟りを怖れた人々によって鵺塚が建てられたなど諸説あるようです。
別説では鵺の死霊は1頭の馬と化し、木下と名づけられて頼政に飼われたといいます。この馬は子の仲綱のものとなりますが、良馬であったために平宗盛に取り上げられ、それをきっかけに頼政は反平家のために挙兵してその身を滅ぼすことになり、鵺は宿縁を晴らしたのだという伝説も残されています。(村上健司 『京都妖怪紀行 - 地図でめぐる不思議・伝説地案内』 角川書店)
源仲綱の愛馬を巡って平清盛の三男の平宗盛がひどい侮辱を与えた実際の話に脚色したものと思われますが、祟りを怖れていた民衆の噂がそういう話を作り上げたのかもしれません。
源頼政は、この鵺退治の数年後に後白河天皇と崇徳上皇との間に起きた保元の乱、平治の乱にて親兄弟同士の容赦無い争いに巻き込まれますが、平清盛の平家政権下において源氏としての長老の地位を長く保っていました。
しかし最後は、平家の横暴に堪忍袋の緒が切れたのか、打倒平家の挙兵を挙げ、あえない最後を遂げてしまいます(以仁王の挙兵)。享年77歳。
化物退治をしたとされる英雄も、高齢と同じ人間には敵わなかったということでしょうか。
鵺の外見についての謎
鵺の外見ですが、なぜこのような合成動物の外見になっているのでしょうか。干支の動物たちから来ているという考えもあるそうです。
外見には諸説あり、『平家物語』などに登場した鵺は、サルの顔、タヌキの胴体、トラの手足を持ち、尾はヘビ。文献によっては胴体については何も書かれなかったり、胴が虎で描かれることもあります。
また、『源平盛衰記』では背が虎で足がタヌキ、尾はキツネになっており、さらに頭がネコで胴はニワトリと書かれた資料もあるのですが、いずれも干支の動物たちが主なようですね。
北東の鬼門など、方角の意味まで考えると鵺の外見には、何か深い秘密が隠されているようにも思えます。
<前記事>
→妖怪を討伐した英雄たち〜その1 酒呑童子と源頼光
|
|
|
この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。
拙ブログへのコメントありがとうございます。
とても興味深く拝読させていただきました。
この時代は魑魅魍魎が跋扈していたんでしょうねぇ。
それは現代も同じですかね(*´∇`*)
by johncomeback (2015-10-01 23:04)