日本の三大幽霊の最後は「四谷怪談」のお岩さんです。ちょうど本日の7月26日は「幽霊の日」で1825年(文政8年)のこの日、江戸の中村座で「東海道四谷怪談」が初演されました。それにちなんでの記念日だそうです。
日本三大怪談〜四谷怪談、番町皿屋敷、牡丹灯篭、
江戸三大幽霊〜お岩(四谷怪談)、お菊(番町皿屋敷)、 累(かさね)(累ヶ淵)
日本三大幽霊〜お岩(四谷怪談)、お菊(番町皿屋敷)、お露(牡丹灯篭)
◆四谷怪談のモデルになった話
四世・鶴屋南北という人が、不義密通をはたらいた男女が殺され、戸板に縛られ神田川に流されたという実在の事件をヒントにが作った話とされています。まずは、その南北の創作した「東海道四谷怪談」のあらすじを。
◆「東海道四谷怪談」のあらすじ
元塩冶藩士、四谷左門には岩という娘がいて、夫の伊右衛門と暮らしていましたが、伊右衛門の公金横領の悪事により、実家に連れ戻されていました。 田宮家に戻った岩は産後の肥立ちが悪く、病がちになったため、伊右衛門は岩を厭うようになりました。そこへ、高師直の家臣伊藤喜兵衛の孫・梅が伊右衛門に恋をし、
喜兵衛も伊右衛門を婿に望むようになります。
高家への仕官を条件に承諾した伊右衛門は、按摩の宅悦を脅して岩と不義密通をはたらかせ、それを口実に離縁しようと画策します。
しかし、喜兵衛から贈られた薬のために容貌が崩れた岩を見て脅えた宅悦は、伊右衛門の計画を暴露してしまいます。
岩は悶え苦しみ、置いてあった刀が首に刺さって死んでしまいました。伊右衛門は家宝の薬を盗んだとがで捕らえていた小仏小平を惨殺。伊右衛門の手下は岩と小平の死体を戸板にくくりつけ、間男と不義密通をした二人ということに仕立てて、川に流してしまいます。
晴れて伊右衛門は伊藤家の婿に入りますが、婚礼の晩に岩の幽霊を見て錯乱し、梅と喜兵衛を殺害、逃亡してしまいます。
袖は宅悦に姉の死を知らされ、仇討ちを条件に直助に身を許すのですが、そこへ死んだはずの与茂七が帰ってくきます。殺害されていたと思われたのは別の人物でした。
結果として不貞を働いてしまった袖はあえて与茂七、直助二人の手にかかり死にます。袖の最後の言葉から、直助は袖が実の妹だったことを知り、自害することに。
蛇山の庵室で伊右衛門は岩の幽霊と鼠に苦しめられて狂乱していました。そこへ真相を知った与茂七が来て、舅と義姉の敵である伊右衛門を討つという結末です。
◆実在のお岩さんと田宮家
以上の話は歌舞伎の上演の内容になるのですが、お岩さんも田宮家も実在しています。
田宮家からの話は全然本異なり美談として残されています。
田宮家に伝わる話によると、お岩さんと伊右衛門は、夫婦仲も睦まじかったとあります。 お岩さんは貧しい家計を支えるために奉公に出ていたのですが、健気な頑張りで田宮家の富は増え、再び栄えるようになりました。
近所では、お岩さんが自分の田宮家の庭にあった屋敷社を信仰していたお蔭だからという噂がたち、その幸運にあやかろうと、「お岩稲荷」として信仰するようになったとのことです。それからは、家内安全、無病息災、商売繁盛、開運、さらに悪事や災難除けの神として、庶民的の信仰として江戸の人気を集めるようになりました。
全然話が違いますね。 では、なぜこの美談がオドロオドロしい怪談になったのか?。それは、お岩さんの死後ニ百年くらいたった江戸後期の歌舞伎作者、鶴屋南北が原因です。
鶴屋南北はかねてから、「お岩稲荷」のことを聞いていました。お岩という女性が死んでからもう二百年がたっているのに今でも江戸で根強い人気かあることに注目したのです。
人気のある「お岩」という名前を使って歌舞伎にすれば、大当たりは間違いない、と見当をつけた南北は台本書きに入りました。
南北は「お岩稲荷」から「お岩」の名前だけを拝借して、江戸で評判になった様々な時事ネタ的な事件を組み込みました。
密通のため戸板に釘付けされた男女の死体が神田川に浮かんだ事件、主人殺しの罪で処刑された事件、姦通の相手にはめられて殺された俳優の話等など。
四谷左門町の田宮家には怨霊がいたことにし、江戸の人間ならだれでも記憶にある事件を作家の空想力で練り込んでできた話なのです。
そしてこの脚本を「東海道四谷怪談」と銘打ち、四谷の於岩稲荷の事実とは無関係な創作であることを示すことにしたのです。
しかし、お岩稲荷には、これとも違う話も残されているそうです。
文政10年(1827年)に記録された文書なのですが、それによると四谷に住む武士・田宮又左右衛門の娘、お岩が浪人の伊右衛門を婿にとりましたが、伊右衛門が心変わりして一方的にお岩を離縁したため、お岩が狂乱して行方不明となり、その後田宮家で変異が相次いだため、田宮邸の跡地にお岩稲荷を建てたというものです。
鶴屋南北はこの話にも目をつけたのかもしれません。
また、田宮家ゆかりの女性の失踪事件が、怪談として改変されたのではないかという説も。家柄を汚したくないので美談としたのか、本当に仲睦まじかったのか。成功した田宮家を妬んでの悪い噂話が広がったのか?真相はどれなのでしょうか。人の噂はいつの時代もおひれはひれがつきます。
しかし、お岩さんの怪談話は、単なる話では終わりません。この「東海道四谷怪談」を上演する役者には祟りがつきまとうとの噂があります。最初は歌舞伎の芝居関係者。そして現代になり、映画・ドラマなどが始まると芸能関係者へとその噂と参拝が広がっていくことになります。有名なのは尾崎純という監督が32歳という若さで急死したことなどがあります。
NHK大河ドラマ「炎立つ」の原作者などの高橋克彦氏も現代語訳「四谷怪談」の仕事を始めたとたん、担当者が死にかけたり、映画化の話が消えたり、担当女性の顔にお岩さんと同じように顔の右半分に原因不明の湿疹が発生したりと怪異が連続で起きたとのこと。
四谷怪談は、鶴屋南北の創作なのになぜ、祟りが起こり今も続くのか?それも迷信として一笑に付すことはできるのでしょうか?
◆日本の三大幽霊
以上で日本・江戸の三大幽霊を紹介してきました。
完全な創作(元の話は中国なのでモデルは存在していたかもしれませんが)ではありますが、怪談としての完成度が高い牡丹灯籠のお露さん。
リアルな事件を描いた累ヶ淵の塁さん。
数々の女性たちの悲劇が結晶した「番町皿屋敷」のお菊さん。
そして、現在も呪いが起きると言われる「四谷怪談」のお岩さん。
どれも個性的といいますか、それぞれが怪談となる持ち味を活かした話だと思います。これから暑くなる季節ですので、日本の古典怪談をもう一度見なおしてみるのもいいかもしれませんね。
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