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日本の三大怨霊その1〜菅原道真

 日本は三大名物とか三大名勝、三大夜景など三つとりあげて呼ぶのが好きですが、中には三大幽霊、三大怨霊と呼ばれるおどろおどろしいものがあります。

 三大幽霊とは、お岩四谷怪談のお岩さん、番町皿屋敷のお菊さん、累ヶ淵の累(かさね)さんと全員女性ですが、三大怨霊の方は全員男性で歴史上の有名人ばかりです。その三人とは、学問の神さまと言われている「菅原道真」。朝廷に逆らい関東に国を造ろうとした平将門」。そして最強の怨霊と言われている崇徳天皇」です。

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 今回は、その日本の三大怨霊をご紹介。

◆菅原道真の生涯

 菅原道真(承和12年6月25日(845年8月1日)〜延喜3年2月25日(903年3月26日))といえば、平安貴族の有名人。福岡の太宰府天満宮では学問の神様として祀られ、受験生が全国から訪れる場所となっています。
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太宰府天満宮 Wikipedia


 幼い頃から聡明で数々の難関試験に合格し、異例の早さで朝廷の要職についたことからも学問の神と呼ばれる所以なのでしょう。
sh 729.jpg そんな菅原道真公は、宇多天皇の信頼も厚く、トントン拍子で出世していくことになり、逆に藤原氏たちからは恨まれていくことになります。
 そして道真が右大臣に昇進した後、宇多上皇が出家したことで、その後ろ盾が無くなった道真は非常に危険な立場になりました。
 藤原氏たちの陰謀により無実の罪を着せられ、九州大宰府へ左遷させられてしまいます。
宇多上皇は処分の停止を醍醐天皇に訴えようと駆けつけますが藤原菅根が取り次がず、そのまま左遷の処分が下ることになりました。
 もともと健康では無かった道真は左遷された2年後、再び京都に戻ることなく59年の生涯に幕を閉じることになりました。(903年)

◆道真公の呪いか

 奇怪な現象が起こるのはこれからです。

「北の天神縁起」(北野天満宮の由来が、菅原道真の生涯と深いかかわりをもって伝えられている巻物。国宝)などによると、道真の死去した数年後のある夏の夜、道真の霊魂が比叡山の座主・法性房尊意の前に現れて、これから都に出没し、怨みを復讐ではらす決意を述べ、邪魔をしないようにお願いに来たとのこと。

 そしてまずは、菅原道真を追いやった首謀者の一人である中納言・藤原定国(ふじわらのさだくに)が41歳の若さで急死。(906年)
 さらには、醍醐天皇に直訴するため裸足で駆けつけた宇多上皇の行く手を阻んだ藤原菅根(すがね)が雷に打たれて死亡。(908年)
 この頃には菅原道真の祟りだと一様に恐れ始め、左遷に追いやった張本人、藤原時平は39歳の若さで加持祈祷の甲斐なく病気が悪化し、菅原道真の祟りに怯えながら狂死してしまいます。(909年)

 時平の命を奪ったと噂された道真の霊は、その後ますます激しさを加え、時平の子孫たちを次々と死に追いやり、遂に醍醐天皇の皇太子の命まで奪うに至ります。

 源光(みなもとのひかる)が狩りの最中に底なし沼に乗っていた馬ごとハマって行方不明。(913年)

 醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった保明親王(やすあきらしんのう)が21歳の若さで急死。(923年)

 保明親王の死後、醍醐天皇の皇太子となった慶頼王(よしよりおう・保明親王の子)が今度は5歳で死亡。(925年)。

 保明親王・慶頼王ともに藤原時平と繋がりが深かったことから、両者の相次ぐ薨去は菅原道真の祟りによるものとの風評が立ちました。
 これを受けて醍醐天皇は道真を右大臣に戻し正二位を追贈する詔を発し、道真追放の詔を破棄することにします。

 しかし、なおも、台風・洪水・疫病と災厄は収まりません。

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 延長8年(930年)6月にはなんと、内裏の清涼殿に落雷が発生する事件が起き、多数の死傷者が出ます。(清涼殿落雷事件
 特に死亡した藤原清貫(きよつら)は、かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を命じられていたこともあり、これはもう、完全に菅原道真の祟りだと、益々恐れられることになります。
 落雷の惨状も凄まじく直撃を受けた清貫は衣服を焼損し胸を裂かれた状態で即死。 醍醐天皇はこれを見てショックに打たれたのでしょうか、病に臥し、3ヵ月後寛明親王に譲位、7日後崩御してしまいます。

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『北野天神縁起絵巻』に描かれた、清涼殿落雷事件


 こうして菅原道真を左遷を企てたもの加担したものは天皇といえどもその祟りから免れることはできなかったと噂されます。しかし藤原家では唯一、藤原時平の弟である藤原忠平(ただひら)だけは、菅原道真に同情の思いを寄せていて、励ましの手紙などを送っていたこともあり、祟られてはいません。
ライバル達が全滅してしまって藤原忠平はこの後、摂政・関白となって藤原北家を支えていきます。忠平は、寛大で慈愛が深かったので、その死を惜しまぬものはなかったといいます。(『栄花物語』)正に「情けは人の為ならず」ですね。
 
 これだけ関係者が死亡してしまうと、因果関係がやはりあるのではないかと思ってしまいますが、菅原道真公自身が実際に呪いの言葉を残した事実はありません。不運の死を遂げた菅原道真公の祟りに違いないということになっていくのです。
 理不尽な処置で人を死に追いやれば、その怨霊はその罪を犯した人すべてに報復を加えるのだという認識が当時の人々の間にすっかり定着してしまいました。

 
 この菅原道真の怨霊を鎮めるために、北野天満宮が建てられ、御霊、雷神として祀ることになり、その後「学問の神様」として祀られるようになります。
 恨みは晴らしたという感じなのでしょうか。今度は神様として活躍するようになる訳です。

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岡野玲子『陰陽師』7巻「菅原道真」

<関連記事>
→日本の三大怨霊その2〜平将門
→日本の三代怨霊その3〜崇徳天皇
→日本の三大怪談
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コメント 1

johncomeback

菅原道真が祟ったというのは知っていましたが、
具体的にこんなに多くの関係者が死亡していたとは・・・
ツタンカーメンもビックリですね(^▽^)/
by johncomeback (2014-07-05 06:04) 

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